忘れ去られた道で

 惜しむものは何もないのだから。
 このまま、消えてしまおうか。

 大きな決意ではない。それがもっとも自然な行為であるように、私は感じていた。
 いつも歩いた海沿いの道。水底(みなぞこ)は遙かに遠い、崖っぷちの道。足下(そっか)では、波の割れる音が幾重にも寄せている。
 この、危うげな道を渡り、私はいつも、あの人の元へ帰った。
 この、忘れ去られた道は、私とあの人だけが知っている、密やかな場所だった。
 いまは往き場をうしなった私ひとりがさまようだけの。

 道を逸れ、私は海を臨んだ。
 春まだ浅い紺碧の海。岩壁に砕かれ、飛び散る白い飛沫が光を弾く。寒風に煽られ続けた木々は歪み、色褪せた草が乾いた音を立てている。
 私はなにも、考えない。考えられなかった。分かち合う者のない記憶は、夢か(うつつ)か、次第に解らなくなってゆく。
 潮騒が眩暈(めまい)を誘い、吹き上げる風が脚をすくう。
 剥離する現実、浮遊する身体。
 生き苦しさから解き放たれた刹那、私の双眸に映ったものは、光。それだけだった。光あふれ、煌めき、ただただ目映(まばゆ)いばかりの。

 淡く霞んだ青空に、一羽の鳥が、弧を描いて飛び去ってゆく。

 風に押し返され、私は大地に抱きとめられていた。
 私の身体は、どこも痛んではいなかった。春の大地は限りなく、柔らかだった。
 それは触れあう背から脚から、すべてから伝わってくる。穏やかに、揺さぶるように。
 下生えの草、その奥にある新芽、(うごめ)く虫、遙か深みにある、無数の生と死と。それらは私を呑み込んでどこか遠くへと連れ去り、ふたたび早春の光舞う、この地へと解きはなった。
 風にゆられ、さざめき笑う草たち。日なたの匂い。
 頬をつたう涙の熱さに、私は、自分が凍えきっていたことに、ようやく気付いた。

 冷えた手で頬を拭い、身を起こす。かじかんで思うように動かない脚で立ち上がるのは、ひどく心許なかった。
 崖から少し離れたところまで歩み、私はもう一度、海を仰ぎ見た。

 この、()りあがる雄大な海が、私はずっと恐ろしかった。
 あの人と眺めていた頃も、本当はずっと、恐ろしかったのだ。



 私たちは息をひそめるように逢瀬を重ね、密やかに罪を交わした。
 秘密は(つい)(さら)されず、あの人と共に真白き灰となった。

 ただ、忘れ去られたこの道だけが、変わらぬ静穏の中に微睡(まどろ)んでいた。




2004.3.11


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