■ 忘れ去られた道で ■
惜しむものは何もないのだから。
このまま、消えてしまおうか。
大きな決意ではない。それがもっとも自然な行為であるように、私は感じていた。
いつも歩いた海沿いの道。水底は遙かに遠い、崖っぷちの道。足下では、波の割れる音が幾重にも寄せている。
この、危うげな道を渡り、私はいつも、あの人の元へ帰った。
この、忘れ去られた道は、私とあの人だけが知っている、密やかな場所だった。
いまは往き場をうしなった私ひとりがさまようだけの。
道を逸れ、私は海を臨んだ。
春まだ浅い紺碧の海。岩壁に砕かれ、飛び散る白い飛沫が光を弾く。寒風に煽られ続けた木々は歪み、色褪せた草が乾いた音を立てている。
私はなにも、考えない。考えられなかった。分かち合う者のない記憶は、夢か現か、次第に解らなくなってゆく。
潮騒が眩暈を誘い、吹き上げる風が脚をすくう。
剥離する現実、浮遊する身体。
生き苦しさから解き放たれた刹那、私の双眸に映ったものは、光。それだけだった。光あふれ、煌めき、ただただ目映いばかりの。
淡く霞んだ青空に、一羽の鳥が、弧を描いて飛び去ってゆく。
風に押し返され、私は大地に抱きとめられていた。
私の身体は、どこも痛んではいなかった。春の大地は限りなく、柔らかだった。
それは触れあう背から脚から、すべてから伝わってくる。穏やかに、揺さぶるように。
下生えの草、その奥にある新芽、蠢く虫、遙か深みにある、無数の生と死と。それらは私を呑み込んでどこか遠くへと連れ去り、ふたたび早春の光舞う、この地へと解きはなった。
風にゆられ、さざめき笑う草たち。日なたの匂い。
頬をつたう涙の熱さに、私は、自分が凍えきっていたことに、ようやく気付いた。
冷えた手で頬を拭い、身を起こす。かじかんで思うように動かない脚で立ち上がるのは、ひどく心許なかった。
崖から少し離れたところまで歩み、私はもう一度、海を仰ぎ見た。
この、迫りあがる雄大な海が、私はずっと恐ろしかった。
あの人と眺めていた頃も、本当はずっと、恐ろしかったのだ。
私たちは息をひそめるように逢瀬を重ね、密やかに罪を交わした。
秘密は終に曝されず、あの人と共に真白き灰となった。
ただ、忘れ去られたこの道だけが、変わらぬ静穏の中に微睡んでいた。
2004.3.11
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