■ 罪告鳥 つみつげどり ■
子貫はひとつの罪を犯した。それは誰にも言えぬ罪だった。
秋の狩場、吹き抜ける風だけが子貫の罪を知っていた。
草原で佇み、うつむく子貫の足元には、一羽の玄鳥が伏せている。
枯れ草を揺らす黒い影に向かって弓引いたのは子貫だ。他意は無い、獣と見誤っただけなのだと弁解しても、黒くしなやかな翼は動かない。嗣王である子貫が自国の守護霊を射抜いた事実は変わらない。
そして、このことが公になれば、子貫が宮城から放逐されるのは必至だった。最悪、死を賜ることになるかもしれない。
風が吹く。子貫の罪を告発するかのように枯れ草が啼く。
立ち竦んでいた彼は、次の瞬間、かっと目を見開き、腰の銅剣を抜くと凄まじい速さで玄鳥の首めがけて振り下ろした。それから玄鳥の躰をつらぬく矢を抜き、心臓をえぐりだし、銅剣で地に三つの穴を掘った。その穴のひとつに、玄鳥の首を剣尖で弾き落とす。ごろりと転がった拍子に光をうしなった左目が、子貫を見上げた。慌てて土を掛けて視線をたち切り、続いて躰と心臓も別々の穴へと埋めた。
躰を分断して埋めるのは、玄鳥の霊力を奪い、呪いを避けるための、一種のまじないである。
忌まわしき作業を終えて暗い息を吐いたとき、鋭敏になった子貫の耳が、葉擦れの音とは異なる微かな音を拾った。
矢を握りしめ、ゆらりと立ち上がる。血走った目で辺りを睥睨した。
息を潜める小動物のような気配がする。だが、この乱れた気は獣ではなく、人であろうと子貫は感じ取った。矢を弓弦に掛け、引き絞る。そしてゆっくりと躰を回転させつつ、四方の草陰を窺った。
「そこにいるは、誰ぞ」
気配が大きく揺らいだ場所を探し当てると、子貫はぴたりと鏃を向け、誰何する。枯れ草が小刻みに揺れているその場所へ、一歩ずつ近付いてゆき、さらに言った。
「逃げるがよい。神が、汝を庇護し、我を罰するのであれば、決して矢は汝に当たらぬであろう」
きりりと、さらに弓弦が引き絞られる。
「お、お許しを……!」
弾かれたように姿を現した男は、枯れ草を分け、子貫に背を向けて駆けだした。
風は、斜め左から吹いていた。横風であれば、狙いは外れやすい。子貫は弓の名手であったが、風の強さと心の乱れ、なによりも神への畏怖が、その自信を揺るがせた。
男が逃げおおせたなら、子貫は父王を通じて神からの断罪を受けるだろう。―― そして、男が子貫の矢に倒れたなら、子貫は信ずる神をうしなうことになる。
おのれがどちらを願っているのか、子貫にはわからなかった。
わからぬままに矢は放たれ、風を切り裂いた。
逃げる男が再び草陰に伏し、動かなくなった時。子貫は深い喪失感と失望感に浸された。
王の子である子貫が狩りをするのは糧を得るためではなく、まして遊びでもない。他ならぬ神を祀るための儀式の一環である。その儀式で子貫は神の化身を射殺し、あまつさえ罪を隠匿しようとしたのだ。なのに、神罰は下らなかった。
古来より、あまがける鳥を風神の化身と崇め、尊んできたのは何だったのか。数々の儀式は、数多の犠牲は何のためであったのか。神霊より授かった力を、血を尊び、血族婚を繰り返す王族は何を得たというのか。
―― 神など、いない。
みずからの罪を、神への疑念にすり替えることに、もはや子貫はためらわなかった。
叔父である邵氏の元へ嫁いだ姉の、儚げな笑みを思い出す。細く白い指が、子貫に触れるか触れないかのところで遠のいた、あの夜を。
どれほどの時間、立ち尽くしていただろう。夕闇が迫るころ、馬蹄と車輪の音に、彼は振り向いた。
緋色に染まる天空と蒼い稜線を背負い、馬車が一乗、走り寄ってくる。車上には、父王の近臣である許冽がいた。
「子貫さま、お探し申し上げておりました」
初老の武官は車から降りると膝を付いて拱手する。黙してうなずく子貫を一度みあげ、再拝して上申した。
「王がご危篤にございます。すみやかに宮城へお戻り頂きますよう、お迎えに参じました」
「―― そうか」
茫洋と呟いた子貫をうながし、許冽は子貫の馬車を探す。そうしているうちに狩りの途中で子貫とはぐれた臣たちが集まってきた。子貫の馬車は程なく見つかったが御者の姿は見えず、許冽は子貫に問うた。
「御者は、どうなされましたか」
問われた子貫は許冽から視線を逸らし、荒涼とした草原を眺めた。
「あの者は、神罰を得たのだ」
地の底を這うような、低い子貫の声に、許冽は目を瞠る。そして、子貫の視線の先、草陰の中で一本の矢が突き立っているのを見つけた。
物問いたげな許冽に対し、子貫は顎をしゃくり、見てこいと促す。戸惑いを隠せない面持ちで子貫の命じに従った許冽は、戻ってきた時、一本の矢を手に持っていた。
「お帰りの際は、それがしが御者を務めさせていただきます」
言いながら、許冽は矢を、子貫の射た矢を、彼に返した。王族たちの矢羽は、それぞれどの鳥の羽を使うか決まっている。つまり矢を見れば、それが誰の物であるのか一目瞭然なのである。
子貫がそれを自嘲の笑みで受け取ると、
「あの者の処置は部下に申しつけておきましょう」
と、許冽は密やかに言い、子貫を車上へと促した。
王に重用されている許冽が子貫の暴挙を責めたのなら、王を通して咎めがあるかもしれない。
しかし、愚忠の臣が王子を糾弾するはずもなく、そもそも子貫を罰することができる唯一の王はまもなく崩御するであろう。それらを判っていながら、子貫は許冽に罪の一端を見せた。何一つ非難しない王臣が悪いのであって、自分が悪いのではない、そういう体裁を取るおのれの怯懦さが笑えた。
自嘲する子貫の心の裡から、罪の意識が、神と父王への畏敬が霧散していく。
彼は許冽が御する車上に立ち、向かい風を受けながら、赤い雲の下で陰を落とす険峻を見据えた。宮城は、あの山脈の上にある。夜通し馬車を走らせても一日では着かないだろう。険しい山の頂へ至る道は、馬車では通れないのだからなおさらである。神の膝元へ、少しでも近付くためにと建てられた宮城は、不便極まりないだけで、そこに神など降りてはこない。
なんと滑稽なことかと、子貫は肩を揺らして哄笑する。
子貫はひとつの罪を犯した。
玄鳥を射殺した、そのただひとつの罪が、またたくまに幾つもの罪を呼び寄せた。そして明らかにされぬ罪は、これからも新たなる罪を呼び寄せるのだろう。
―― いや。
はじまりの罪は、ひょっとして、あの夜、姉を攫ってゆこうとしたことだったのだろうか。
薄絹の向こうに消えていく背を見送った、その結果が今であるのなら、逃げる白い手を掴み取ったらどうなっていたのか。
子貫の虚しい妄想を嘲笑うかのように、ちぎれゆく風は彼の耳元で吼え続けた。
2004.8.15
*用語補足*
玄鳥 :ツバメのこと。単純に黒い鳥…と思って頂いてもかまいません。
拱手 :左右の掌を胸の前で組み合わせる中国式の礼。
馬車 :ここで言う馬車は古代の、立ったまま乗る馬車(戦車)です。屋根はありません。
*人物余談*
子貫 :天涯の国で登場したリウ・シャンの父親。この人の姉というのはシャオ・ウェイの母親です。
許冽 :シュイ・リー将軍と同一人物です。漢字で書くとこういう名前なのでした。
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