■ 影 ■
「恐いの。いやな夢ばかり見るの」
彼女は泣きながら訴える。小さな身体をさらに縮めて、膝を抱えて震えている。そんな彼女を僕は抱きかかえ、背中を撫でてやる。
「嫌な夢は、夢でしかない。本当のことじゃないんだ。だから、恐がらなくてもいいんだよ」
彼女は本当に小さい。いろんなことが判らなくて、いつも怯えている彼女を、僕はずっと見守ってきた。
彼女が望むのならば、僕はこれからも寄る辺なき彼女を癒す存在でありたいと思う。しかし近頃、僕の言葉はどこかしら空虚に響く。
この暖かな闇の中で保たれてきた平穏が崩れる。そんな予感に、僕たちは戸惑っていた。
「でも……! ほんとうになるかも知れないでしょ。ほんとうに、いやなことが起こるかもしれないじゃない」
振り下ろされる手。フラッシュバックするイメージが、彼女を脅かす。
自己の存在を、身を縮めることで消そうとしている幼子に襲いかかる、狂気の手と言葉と。僕が守ってやれなかった、そして彼女が決して忘れることの出来ない日々は、いつも僕たちに昏い影を落とす。
「やっぱり恐い。わたし、どこにも行きたくない。ずっと、ここにいる」
闇に溶け込んで見えない僕に、彼女は強くしがみついて訴える。
ここに居ていいよと、囁くのは容易い。実際いままで僕はそう告げてきた。だけど ――
「本当に、ずっとこうしていていいの? それで君は、幸せになれる?」
「……ええ。だってあなたは、決してわたしを傷つけないもの」
「そうだね。僕はいつだって、君の味方だ。何があっても」
そう。僕はどんな時も彼女の味方だ。今までも、これからも。
「だから判る。君は、本当は、ここから抜け出したい。だけど勇気が持てない。……違うかい?」
「わたしは……」
彼女は言葉を詰まらせる。僕は彼女の両肩に手を添え身を起こしてやると、不安に揺らぐ瞳を見つめた。
―― そして、彼女が望む一番の言葉を贈る。
微笑みかけてくれる人が、僕たちには居るから。その笑顔が、この暗闇に一筋の光をもたらす。
澄んだ眼差しの彼女を、僕はもう一度、愛しさを込めて抱きしめた。
***
私には、足りないものがたくさんあった。
愛する事と甘えること、必要とされる事と許すこと。それら多くの感情を、彼らは教えてくれた。
まばゆい世界に惑い、逃げだしたくなるとき、私は私の背後にある暖かな存在を、今も感じるのだ。
彼らは影に隠した私の手をそっと握り、小さな声で囁いてくれる。
“君はもう、大丈夫だよ” ―― と。
2004.3.20
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