必要な人

 僕が学校から帰ってきて玄関を開けると、今まさに首を吊ろうとしている父さんと目が合ってしまいました。
 何をしているの と、言わずもがなのことを尋ねた僕に、父さんは輪になったロープから陰鬱な顔を覗かせたまま、律儀に答えました。

「この世の中に絶望した。もう、生きていく価値も意味もない。止めないでくれ」
「父さんが絶望したのは、世の中じゃなくて父さん自身にでしょう?」
 僕は、ちょっと意地悪なツッコミをしました。
「ああそうさ、どちらでも同じことさ。とにかく生きている価値なんて、もうないんだ! 止めないでくれ!」
 いや、止めていやしないけど。
 ……という内心のツッコミは口に出さず、僕は父さんを見上げて軽く溜息を吐いてみせました。

「だけど父さん。僕にとって父さんは、必要な人だよ」
――よ、よしお……」
「僕だってさ、もう何もかもが嫌になって世の中のせいにして、死んじゃいたいって思う時もあるよ。でも、賭け事が好きで女が好きで酒が好きで母さんが何処かの男と夜逃げしてしまっても相変わらずの生活をして、都合が悪くなったら死ぬ死ぬって騒ぐ父さんを見てたら、絶対、こんなろくでもない大人にだけはなるもんか自殺だけはするもんか……って、思えるもの」

 黙り込んでしまった父さんは、ロープから手を放すと、すごすごと丸椅子から降りました。

 肩を落とし、家の奥へ引っ込んでゆく父さんの背中は小さくて頼りなくて、少々良心が痛みましたが、きっと明日になったらまた、はた迷惑なほど元気になるのでしょう。
 父さんが怪しい仕事で得た金は懐に留まることを知らず、馬と麻雀牌と酒と女に貢がれます。各種ローン会社と高利貸しからの督促状でポストは一杯、昼夜を問わず掛かってくる電話はコワモテな顧客担当さんたちの丁寧な脅し、昨日は社員だか玄人さんだかよく判らない人たちがやってきて、家中に差押えの赤紙を貼ってゆきました。
 そして今日、学校へ行ったら、昨日の夜、繁華街で僕の父さんが女の人の髪を掴んでその顔をブロック塀に押しつけ、数十メートル引きずって歩いていたと聞かされました。この世のモノとは思われない、すげえ悲鳴だったとクラスメートは興奮気味に話していました。ちなみに父さんは今日の明け方、女に裏切られたと泣きながら帰ってきたので、まあそういうことなのでしょう。

 これが僕と父さんの日常です。
 父さんという人がいるお陰で、僕は将来、誰よりも強い大人になれる。そんな気がします。




2004.4.28


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