■ 翡翠の星 ■
ぼくはどうしようもなく独りで、息苦しいほどの淋しさに蝕まれている。
そんなふうに感じる夜もあります。
祖父に貰ったテレスコープを片手に、ベランダへ出て星を探すのは、大抵そんな夜です。明るすぎる町は星も見えないけれど、むかし祖父が教えてくれた、たったひとつの星だけは、いつでも探しだせるのです。
ひやりと冷たいサンダルに足を滑りこませ、ぼくは青白い世界の一部となります。眼下でちらつくネオンは音の無い雑音のように煩わしく、高所へと響く絶え間ない自動車の音は、まさしく騒音以外の何者でもありませんが。まあこれもすぐ、気にならなくなります。植え込みの沈丁花や雪柳、桜並木などが夜気に紛れて薫ってくる春の宵は、何とも言えず心地良いものです。
ちなみにテレスコープとは望遠鏡のことです。正確に言うとこれは単眼鏡で、ガリレオ式と呼ばれるタイプに似ています。むかしむかしの海賊や冒険者が手にしていたような、そんな趣がある、祖父の形見でぼくの宝物なのです。てのひらに収まる小さなそれは、鏡筒の部分に緻密な文様が彫られており、渋い金色の、しっとりとした手触りをしています。チタン製のようにも見受けられますが、実際どのような材質であるのか、ぼくには見当もつきません。決して傷つかず、そして驚くほど軽いのですから。
季節ごと、時間ごとに変わる星の位置すべてを、ぼくは祖父から伝授されました。いま季節は春、もうすぐ日付が変わる頃。ぼくの頭の中にある星見表が、北北東64度の位置だと教えてくれます。はじき出された角度にレンズを差し向け、アイピースに片目を当てると、漆黒の闇に丸く灰青色の空が見えます。星はまだ見えません。鏡筒を右へ回転させることで筒が伸び、倍率が上っていく仕組みなのです。
そっと鏡筒を回すたび、キンと澄んだ音色が、夜空へと響き渡ります。この音、ジッポライターを開いたときの音に少し似ていると、ぼくは思ってます。それよりもずっと深くて高い、宇宙の果てまで届きそうな、清々しい音なのですけど。言葉でうまく伝えることは、とても難しいです。
ぼくはゆるやかに鏡筒を回します。地上の明かりが少しずつ、遠ざかってゆきます。代わって名も無き星たちが、少しずつ近づいてきます。テレスコープの倍率が上がっているというよりもむしろ、ぼくが宇宙へと近づいている、そういう感覚で。
ながいながい宇宙の旅。祖父の軌跡を辿るように、ゆるやかに。
***
祖父がこのテレスコープを初めて見せてくれたのは、ぼくが五歳の時でした。
晩秋の夜、楽しみにしていたテレビのアニメが臨時ニュースで流れてしまい、ふてくされたぼくは縁側で空を見上げていました。遠くの国で、光の雨を降らす飛行機や壊された建物、走る戦車や銃弾に倒れる人々。そういうものを、ぼくは見たかったのではないのです。
「翠は、星を眺めるのが好きかね」
居間の灯りを背に、祖父が縁側へ出てきました。そしてぼくの隣りに座ると、ぼくと同じように空を見上げました。
みどり、というのはぼくの名前です。女の子みたいな名前が嫌で、名付けてくれた祖父を責めたことも、昔はありました。でも今はこの名前、とても気に入っています。
祖父の問いに「好きだよ」と、おさないぼくは答え、いつものように頭いっぱいに詰まった不思議を祖父に投げかけました。
「ねえ、じいじ。星って、空にあいた穴なのかな」
「穴? 空に輝くのは、この地球や月と同じ、星と呼ばれる天体だね。カーテンに穴が開いているのとはわけが違う」
祖父は、その日ぼくが友達と隠れんぼしているのを見ていたから、そう言ったのでしょう。友達の加絵ちゃんは祖父の暗室にある分厚いカーテンに隠れていて、ぼくが見つけると「星がいっぱい見えた」と笑っていましたから。
「それじゃあ星は、糸でつるしてあるわけでもないの?」
ぼくは保育園で作った、箱の中の星たちを思い出しながら尋ねました。お菓子の箱の内側に黒い画用紙を貼って、その中に小さな地球や月や、輪っかのついた土星なんかを糸でつるしたのです。
ぼくの作ったプラネタリウムを見て先生は驚き、「翠くんは星が丸いことをちゃんと知っているのね。とてもよく出来ているわ」と、褒めてくれました。ふと周りを見ると、加絵ちゃんやほかの友達はみんな、クリスマスツリーの飾りみたいな、黄色い星をつるしていました。
「だって、じいじは星のカメラマンだもん。おうちにはたくさん星の写真があるから、だから……」ぼくは叱られた時みたいに早口の、小さな声で答えました。
星が球体であることも、遙か遠くにあるのだということも、ぼくは祖父の写真や天文図鑑で知っていましたが、それが真実だという実感はちっともなかったのです。祖父はいつでも、本当のことだけを教えてくれたから、その言葉を疑ったわけではありません。ただ、みんながぼくの作ったプラネタリウムを不思議そうに眺めるのが、ひどくいたたまれない気分にさせたのです。
「翠。遠くで輝く星の、そのすべてには、生命が宿っているのだ」
祖父の声は穏やかだけれど、確信に満ちた力強さがありました。
「ぼくやじいじのように?」
「そう。翠や私のように」
そして懐から金色に輝くテレスコープを取り出すと、おさないぼくを膝に乗せ、その耳元へ秘密を打ち明けるように囁きました。
「翠に、私の星を見せてあげよう」
キリキリと澄んだ音色を響かせ、テレスコープは目指す星へと近づいてゆきます。
暗い宇宙に輝く一点の光が、やがて螺鈿の光彩に似た銀河となって迫ってきました。光彩は幾つもの星となり、さらに進むと、まろやかなみどり色をした星が、視界いっぱいに広がりました。
手を伸ばせば届きそうな、翡翠色の星。とろりとした海はゆるやかな波をつくり、波はみどりの光を放っています。陸地を埋め尽くす緑青の木々が、ゆたかに葉を伸ばし、風に揺れています。大海は思いのほか浅いらしく、底が透けて見えます。海草なのでしょうか、白銀の枝を伸ばす木々が海底に広がり、その繊細な枝の隙間を黄金色や赤銅色の魚たちが泳いでいます。空には鳥が、一羽として同じ色はない、多彩なみどりの羽の鳥たちが、心地よさそうに飛んでいます。
ゆたかに、うねるような、緑、翠、碧。
翡翠の星は幾つもの命を内包して、美しくかがやいていました。
「どうだね、綺麗なものだろう」
翡翠の星の美しさに心奪われ、言葉も出ないぼくは祖父の声にうなずき、ただただ星に見入っていました。
「もう、遠い遠い昔のことだ。……私は、星、そのものだった」
やわらかにうち寄せる波のように、祖父の声は星に響きます。テレスコープを握り、瞬きすることさえ忘れて星を見つめるぼくには、星が、語りだしたように思えました。
「あのころの私は孤独を持て余していた。無限に続く宇宙の闇を眺めては、おのれを憐れんでいた。……だが、実際のところ私は、独りではなかった。闇は、虚無の闇などではなかったのだ。なぜならあの輝けるいくつもの生命は、常に私と共にあったのだから。
―― それを悟ることもできずに、私は……星は砕け散り、宇宙の塵となり果てた。
翠。
いまお前が見ている星は、過去の光なのだよ。今はもう、どこにもない星の、光の記憶なのだ」
祖父の声はみどりの海をさまよい、途切れ、波間の下の、銀の枝から生まれる泡となって湧きあがり、波頭で弾け、空へと溶けてゆきました。
「……大切な、ほんとうに大切なものは、失うまでそれと解らないものなのかもしれない。なくして初めて、そのかけがえのない美しさに気付く」
おさなかったぼくは強い不安に駆られ、テレスコープから目を離し、身をねじって祖父にしがみつきました。祖父の語る言葉のすべてを理解したわけではありません。ただ、祖父の深く静かな声が寂しくて、どこかへ消えてしまいそうで、とても怖かったのです。
遠くの美しい星より、目の前の祖父のほうが、ぼくにはずっと大切でした。
ぼくの頭を撫でる祖父のてのひらは大きく、温かでした。
それから十年ほどの歳月が過ぎた頃。
祖父は唐突に、ぼくと祖母の前からいなくなりました。
いつも早起きの祖父母が、その日はなかなか台所へやってこなかったので、ぼくは普段見ないテレビを付け、朝のニュースを眺めていました。
ニュースは天気予報の途中で速報のテロップが入り、間を置かず映像が切り替わると、湧き上がる大歓声がスピーカーから溢れ出てきました。異国の地でマイクを握る取材者は、民衆にもみくちゃにされながらも、満面の笑顔で、長い戦争が終わったと声高らかに告げていました。歓声をあげる人々が掲げるのは国旗ではなく、瑞々しいオリーブの枝でした。
ぼくはしばらく、その映像に見入っていましたが、やはり祖父母のことが気に掛かり、二人の部屋へと向かいました。
障子を開けると、布団の上に座っている祖母の背中がありました。祖母の前には祖父の布団もあったのですが、めくりあげられた掛け布団の下に、祖父はいませんでした。
「おじいさんは?」
尋ねたぼくの声が届かなかったのか、祖母は白いシーツをじっと見つめたまま、身じろぎもせずに座っています。そんな祖母の視線の先、祖父が眠っていたはずのシーツの上に、一粒の翠玉があることに、ぼくは気付きました。
それは一粒の、まろやかなみどり色をした、翡翠でした。
テレビの向こうの歓声は、遠く離れた祖父母の部屋にまで響いていました。
祖母は取り乱すことなく、いつものおっとりとした穏やかな表情で過ごしていましたが、その背中は日毎に小さくなってゆくようでした。
「翠さんのお友達に、宇宙飛行士のかたはいらっしゃる?」
ふと思い出したように、祖母がぼくに尋ねてきたことがあります。
あいにくそういう友達や知り合いはいないと答えると、祖母は残念そうに溜息をつき、懐から例の翡翠を取り出し、翡翠に向かって
「空に返してあげたら、喜んでくれるかと思ったのよ」
と、呟きました。
「きっと、空へ帰るよりも、おばあさんが持っていてくれるほうが、嬉しいと思うよ」
ぼくがそう言うと、祖母は顔を上げ、少女のような、はにかんだ笑顔を見せてくれました。
それから間もなく、祖母もこの世を去りました。
ぼくの手元にはテレスコープだけが残されました。
***
テレスコープからそっと目を離した途端、地上の光と喧噪がよみがえり、ぼくは軽いめまいを覚えました。
花の薫り、光の洪水、疾走する自動車のエンジン音。遠くで響くサイレン。夜気に満ち満ちている、生命の気配。
それらのすべてが愛おしい。
翡翠の星をながめた後はいつも、そういう気持ちになります。
清かな音を立ててテレスコープの鏡筒を巻き戻し、てのひらに収まったそれを、ぼくはポケットにしまい込みました。
こんなに小さなテレスコープが、幾億光年も彼方の星を捉えるなんて……
そう、あなたは笑うかもしれませんね。
本当に見えているのかと問われれば、実際のところ、ぼくは自信をなくしてしまいます。ですが、一粒の翡翠となって消えた祖父の記憶を、願いを、ぼくは垣間見ているのだと思うのです。
ぼくと祖父が同じものを見て目を輝かせていた日々や、ぼくの知らない祖母との出会い。
翡翠の星を眺めることで、ぼくが慰めを得ているように。
この星へ流れ着いた祖父も、幸福であったと信じたいのです。
2004.8.22
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