■ 彼岸にて ■
すこし細長い形の部屋。板張りの床、セピア色に染まった漆喰、木枠の窓には薄い硝子。 そして、そこからは緩やかな流れの川が見える。
私はあの川を小さな船に乗って渡り、この部屋に来た。一言も口を利かない船頭が漕ぎ出した時には、私以外にも数人いたように記憶しているのだけれど、この部屋には私一人で居る。背後を見ると、それは祭壇の裏側か何かのようで、ここはその内側らしいという気がした。
なにか頭の芯がぼんやりしている。ここは来たこともない場所で、なぜ今自分がこうしているのかも判らない。なのに、不安も怖れもなく、ただ私はここにいるのだということがすんなりと肌に馴染んでいた。
今までの記憶はまだある。でもそれは物語を読んだ時と同じくらいの距離で、ほんの少し目を上げてしまえば輪郭はぼやけ、その実体は儚く消えてしまうだろう。それでいいのだと思う。一切のしがらみも、絆も、怨恨も、無に帰す時が来たのだ。おそらく私が望んでいたこと、ようやく叶えられた。
なにも考えることはない。この部屋は小さくて狭いけれど、いま私はとても安らいでいて、魂は伸びやかにたゆたっている。ほっと息をつき、背伸びをしようとして、気付いた。実体はもう無い。
それもいい。それでいい。開放感は無限に広がり、私と他の区別はなくなってゆく。哀しかったことも不安だったことも、怖れも憎しみも喜びも、絶望、希望、あらゆる感覚が無に帰してゆくことを何よりも嬉しく思った。しばらくこうしていれば私は、この部屋に溶け込んで、大気に還るだろう。
その時を、切実に待っていた。
だけど呼ぶ声が。私を私と認める声が、ちらばる私を繋ぎ止めた。祭壇の裏側かと思った、その向こう側で、私を呼ぶのは祖母だった。
おばあさん。と、呟いた瞬間。袋を裏返すように、私と祖母は入れ替わった。
***
しっとりと湿り気を帯びた闇。いかなる音も意味をなさない、圧倒的な静寂。
闇で目覚めた私は泣いていた。亡き祖母に夢で出会ったからではなく、生かされた喜びのためでもなく。
還れなかったと落胆している自分の情けなさに、泣いた。
お祖母さん、あなたは私に立派な大人になりなさいとおっしゃり、いまわの際に私が立派な大人になったと誇らしげに微笑まれた。
だけどお祖母さん。大人になるということは、装う顔が増えるだけなのだと、このごろの私は思う。
闇に迷い、装うべき顔が見あたらない時の私は、あなたを困らせていた頑是無いおさな子の頃と、少しも変わっていない。
―― そう、今夜のように。
2004.5.2
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