■ じいさんのビフテキ ■
朝、じいさんがくれるオレの飯は、いつも焼いた肉だ。『ビフテキ』というものらしい。
オレは本当は生の肉がいいのだが、じいさんはこれが一番の馳走だと思っている。だからオレは、犬歯が抜けても食っている。
昼、じいさんは必ず郵便受けを開ける。
いつも広告ぐらいしか入っていなくても、八年前、ばあさんが死んでから毎日、来ない手紙を待っている。
夕、ピンク色のエプロンを着けた、ホームヘルパーというオバサンがやってくる。
ビフテキを焼くのはこのオバサンだ。ヘルパーのオバサンは、じいさんがビフテキを一口しか食わないことも、オレが代わりに食っていることも知っている。時々オレに「ドックフードのほうが食べやすいんじゃないの?」と尋ねてきて、ソフトタイプのフードをこっそりくれたりする。オレは気持ちだけ、有難くいただいておく。
夜、じいさんは家のなかをさまよい歩く。
ひどく神経質に、何度も鍵が閉まっていることを確認したり、鍵を開けて外を窺ったり。怪しいヤツが来ても、オレがちゃんと追い払ってやるのに。だけど、じいさんが恐れているのは、外からやってくるヤツじゃないのだ。じいさんは知らなくても、オレはそれを知っているから、だから今夜も、徘徊するじいさんを眺めながら眠りにつく。
朝、昼、夕、夜。
朝、昼、夕、夜。
毎日おなじことを繰り返し、オレとじいさんは暮らしていた。
じいさんもオレも、もう随分と年寄りだから、同じ毎日がなによりも有難いと思えるのだ。
そんなわけだから、いつものと違うソースを、ヘルパーのオバサンが買ってきて、じいさんが不機嫌になっても、偏屈じじいとか、言わないでやってほしい。
ある日の夜。
じいさんはいつものように徘徊していた。しかし、いつもとちょっと違ったのは、オレに話し掛けてきたことだ。
じいさんはオレの名を呼び、手招きした。オレは迷いながら尻尾を振って、縁側にしゃがみこんでいるじいさんのそばへ寄った。
「いままで済まなかったなぁ」
じいさんは、そう言って手を伸ばし、オレの頭をなでた。
オレは、わけがわからなかった。じいさんに謝ってもらうようなことなど、ひとつもないのだ。
……いや。今日の朝、ビフテキを食っていたら、とうとう最後の一本まで歯が抜けてしまったことを謝っているのだろうか。しかしそんなこと、じいさんは知らないはずだし、じいさんは馳走だと思ってオレにくれているのだから。やっぱり違うだろう。
なんだかよくわからなかったが、オレはじいさんに「気にするなよ」って言うつもりで、じいさんの膝に置いている方の手を、ペロリと舐めた。
じいさんは、
「ありがとうな」
と、何度も繰り返しながら、オレの頭を撫で続けた。
翌朝、じいさんはビフテキをオレにくれなかった。
昼になっても出てこないじいさんは、身体だけを家の中に残して、どこかへ行ってしまった。
ガラス戸越しに見る家の中は、とても暗かった。
***
夕方、ピンクのエプロンを着けた、いつものヘルパーのオバサンが来てからは、途端に騒がしくなった。
見慣れないニンゲンが入れ替わり立ち替わりやってきて、そして翌日、バカ息子のヒロシがやってきた。
ヒロシは、ふてくされたような顔をして、床の間で眠っているじいさんの抜け殻を見おろしていた。オレは縁側の向こうからそれを見ていた。
すると、ヘルパーのオバサンが、なにやらオロオロしながら縁側を走ってきた。手にはビフテキを乗せた皿と、紙切れを持って。
「あのう。失礼ですが……」
ヘルパーのオバサンは、おずおずとヒロシに話し掛けた。
「息子さんの、ヒロシさん……ですよね?」
ヒロシは、ビフテキの皿を持っているオバサンの、爪先から頭のてっぺんまでを眺めたあと、面倒臭そうに言った。
「そうですが。なにか」
「あのう、すみません。松村さんの、あなたのお父様のお手紙らしきものを見つけまして、それで」
「……父の?」
ヒロシの眉間のシワが、ほんの少しゆるんだ。判りにくいが驚いているらしい。
「はい。弘へ、と書いてありまして。ですが、そのう……」
話しながら手紙をヒロシへ渡し、オバサンはオレとヒロシを交互に見ていた。
ヒロシは、食い入るように手紙を読み、それからオバサンの持っているビフテキの皿を見上げ、震える声で言った。
「それを、親父が、俺に……?」
「ええ。……ですけど、あの。確かに『弘へ これを食べなさい』と、お書きになっているのですけど、でも、このワンちゃんもヒロシと松村さんは呼んでいらっしゃいまして」
ニンゲンのヒロシは、ようやくオレに気付いてこっちを見た。
「この犬も、ヒロシなんですか? ……親父が、そう名付けたと?」
「はい。松村さんはいつも、ビフテキを焼くよう私に頼まれましたが、ご自分は一口しかお食べにならなくて。あとはいつも、このワンちゃんに与えておられました。なので、どちらのヒロシさん宛なのかと……あの、どうなさいました?」
ニンゲンのヒロシは、オレを見つめたまま、ボロボロと涙を零していた。
そして、鼻をすすりながら話し始めた。
「うちは貧乏で、おまけに親父はアメリカ嫌いでしたから、欧米風なことのすべてを、親父は否定していました。俺が十代で家を飛び出したのも、そんな親父と口論が絶えなかったからで……。
きっかけは他愛もないことです。
育ち盛りの俺は、他の家の子供と同じように肉が食いたかった。ビフテキ、当時はこれに憧れてましたね。食べ物だけでなく、欧米の文化に。それを親父は認めなかった。かぶれた奴は出て行けと言われ、ああ出ていってやるさと答え……、今に至るわけです。
八年前、亡くなった母の葬儀にも、俺は帰って来ませんでした。憧れた国で、ようやく築き上げた会社が、危うい時期だったからと。その後も、墓参りさえせず、親父のこともロクに考えもしなかった。……いえ、考えてはいました。見返してやろう、偏った考えを覆してやろうと、そう思ってました。親父が否定した国で、俺は成功したぞと言って、胸を張って親父に会えるようにと。
……どちらにせよ、下らない見栄と意地でしかないのですが。
あの頑固だった親父が、犬に俺の名を付けて、ビフテキを食わせていたなんて。こんな寂しく、独りで逝かせて。
俺は、ほんとうに馬鹿だ」
ボロボロ泣いているバカ息子のヒロシ。おまえは本当に大馬鹿者だ。
もらい泣きしてるオバサンが持っているビフテキ、それはオレの飯だ。おまえのじゃない。
顔をしわくちゃにして『ヒロシ』と呼ぶ、じいさんの稀な笑顔はオレのものだ。おまえのじゃない。
オレに、ニンゲンの言葉が話せるなら、そう言って暴れ回ってやりたいところだ。
だが、あいにくオレは、そこまでバカじゃない。
じいさんも、オレよりバカだ。
じいさん、あんたは待つばかりじゃなく、手紙のひとつでも送れば良かったんだ。そうしたら、ありもしない影に怯えて、夜を過ごすこともなかったのに。
済まなかったと、オレには言えてもバカ息子には言えないなんて。意地っ張りの似たもの親子は、どっちもバカだ。
***
葬式が終わったあと、ヒロシはオレに、「一緒に暮らそう」と言った。
オレを通して、じいさんがヒロシを見ていたように、ヒロシはじいさんに言えなかったことを、オレに言った。
まったく、どいつもこいつも失礼なヤツだ。オレの切ない立場を、ちっとは考えてくれよ。
でもオレは、バカなじいさんが好きで。じいさんがずっと気にかけていたバカ息子のヒロシも、嫌いになれない。
なんて思うオレも、やっぱりバカなのかも知れない。
ヒロシの手をペロリと舐めてやる。
そうするとヒロシは、泣きながら笑い、
「ありがとう」
と、じいさんと同じようにオレの頭を撫でた。
2004.4.25
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